ACE アコースティック・ライブ “単独犯 ~ the 高飛び”
元・聖飢魔IIのギタリストACEが現在活動中のユニットface to aceのライブ・スケジュールと
並行して定期的に開催しているアコースティック弾き語りライブ。
face to aceの楽曲や洋楽のカヴァーなど、アコースティック・ギター1本によるアレンジで
風景の広がる音楽をお届けします。
今年も恒例?の、海外からTheRocKへ「北海道の歌唄い」瀬戸口正樹君の登場です。
オープニングアクトと云うか、掛け合い演奏と云うか・・・・・・
「エイトヤマザキ」と、須坂から「山岸バンド」の参加です。
CDレコ発になるので、知られていない新曲も披露していただきました。
大盛況でした。観客の皆様、対バンの皆様、ありがとうございました。
ライブの後は「恒例の呑み会」、ライブ以上に??大盛況でした。
とくにイベント会場としてお店を借りているのではなく、通常のお客として飲みに行き語り合う形態です(入店して外山がいる場所を店員さんに訊いてください)
参加費 飲食代(外山以外の参加者でワリカン)+1000円
※参加者が外山を除いて3名以下の場合は外山を含めてワリカンにしますが、その場合でも万が一その3名以下の中に気前のいい方があれば気前のよさをここぞとばかりに見せつけていただけると助かります。
X-JAPANのギタリスト故hided氏のバンド「hide with Spread Beaver」のベーシスト。
AcQuA-E.P.、ウルフルズ、VAMPS、大黒摩季、大澤誉志幸、GACKT、吉川晃司
小泉今日子、倖田來未、ZIGGY、杉山清貴(元オメガトライブ)、東方神起、
hide(サポートを経てhide with Spread Beaverのメンバーとなる)、PENICILLIN
布袋寅泰、machine、雅-miyavi-、森友嵐士、LIV、Lucy 他、多くのアーティストのサポートをこなす。
昨年は、「AC/AC}にて、当店で、ライブを開催。DIE氏とは、SpreadBeaverの同僚です。
hide with Spread Beaver/布袋寅泰/GACKT等のサポートでお馴染みのCHIROLYNと、ex.グニュウツール/AGE of PUNK/BUG/vezのASAKIとの奇跡のアコースティックユニット『AC/AC』結成!酔いどれデタラメPUNKSの二人(日本代表)によるまさかの狂宴。
魂ブチ込み、本質剥き出し、アンプラグドな本気の遊びの提案。スリルも優しさも、ブルースもロックも全てを飲み干し感じるままに。"俺達流の直流な交流"をテーマに2012年5月から全国20本以上のツアー『AC/AC tour 2012天使の招待状』を敢行予定。是非あなたも一度、AC/ACの世界に魂を震わせに来て欲しい。
2012年7月24日(火)
大澤 誉志幸(おおさわ よしゆき、1957年10月3日- )は、日本の歌手、作曲家、音楽プロデューサー。本名同じ。東京都杉並区高円寺出身。駒澤大学卒業[1]。身長170cm。血液型AB型。1999年迄は大沢誉志幸(読みは同じ)名義で活動していた。
代表曲「そして僕は途方に暮れる (1984.09.21)※日清食品カップヌードルCMソング」
DIE / hide with Spread Beaver のキーボード
2012年6月27日(水)
10代の頃より関西のロック、ジャズシーンで活躍後、1975年、単身渡米。メンフィスのソウル・ミュージシャンと交流。帰国後、山岸潤史らと共に“ソー・バッド・レビュー”を結成。日本のロック、ソウルシーンに大きな影響を与えた。 その後、“GAS”“ザ・ヴォイス&リズム”などのバンド活動や、ランディ・クロフォード、オーティス・クレイ、アン・ピーブルスなど、多くの海外ミュージシャンと共演する。1989年、Charとのアコースティック・デュオ“BAHO”を結成。さらに1992年、ソロ・デビューしメルダック他より7枚のソロ・アルバムを発表。1996年から、活動の中心を東京とするが、「石やん一人旅」で全国を、また南米(ブラジル、アルゼンチン、ペルー)や南太平洋(サモア、トンガ、フィジー)及びジャマイカ、メキシコを飛び回り演奏するなど、世界を股にかけた活動も展開。2003年3月、阪神タイガースの球団公認応援歌「嵐は西から」の作詞・作曲・プロデユースを手がける。 また同年秋には清水興、中村岳とともに活動するトレスアミーゴスとしてニューアルバム発表し、 2004年初頭にはサークルK、TV・CMにトレスアミーゴスとして出演。2003年11月小笠原諸島にてライブを行った事をきっかけに小笠原諸島に魅せられ、その後十数回に渡り渡航。ライブ活動の他、現地の人達との交流を深め、オリジナル小笠原島唄“Boninの島”を作詞作曲。2006年初頭に4年半ぶり通算8枚目となるオリジナル・アルバム『Ishiyan』と小笠原諸島をテーマとしたコンセプトアルバム『Boninの島』の石田長生の今を詰め込んだ2部作を同時制作。それぞれ同年11月、2007年5月と連続リリース。また2007年6月には小笠原諸島父島、母島それぞれの返還祭へ招待されゲスト出演。Boninの島などを披露。島の唄の名手、大平京子さんと共演。現在ソロの他、CHARとの“BAHO”、木村充揮、有山じゅんじとの“平成トリオ”、NANIWA EXPの清水興らとの“トレスアミーゴス”三宅伸治との“ヘモグロビンデュオ”などの様々なユニットでも活動中
MAD大内 / 東京都出身のドラマー。元ANTHEM、現5X・OVER/UNDER
*1981年、ギタリストの小柳彰史に誘われたことがきっかけで柴田直人、前田敏仁らと共にANTHEMを結成。
*1985年、ANTHEMメジャーデビュー *1992年、ANTHEM解散
*1998年、「バンビィノ」で再デビュー。西田昌史のソロプロジェクトthe MARCY BANDに参加。
*2000年、元プリンセス・プリンセスの中山加奈子らと共にVooDoo Hawaiiansを結成。
*2003年、元THE YELLOW MONKEYの廣瀬洋一のバンドHEESEY WITH DUDESに参加。
*2005年、恩師でもあるジョージ吾妻率いる「5X」の再結成に参加。
*2007年、自らのバンド「OVER/UNDER」にて活躍。ツーピースバンドでG&Vはバンビーノの滝。
DIE / hide with Spread Beaver のキーボード
*2008年、「OVER/UNDER」活動中。現ANTHEMメンバーである本間大嗣(Dr)の負傷に伴い、「BLACK EMPIRE」ツアーにおいてサポートメンバーとして参加。
DIE / (1964年2月15日 - )は東京都出身のミュージシャン。キーボーディストとしてのスタジオミュージシャンでもある。
*hide(X JAPAN)のソロ活動の初期からのサポートメンバー(バックバンド)であり、「hide with Spread Beaver」のメンバーにも当たる。同じメンバーのCHIROLYNと共に、通常のサポートメンバーの枠を超えて色々な意味で暴れ、「珍獣」や「怪人」とも呼ばれた。
*一時期、DER ZIBET、GLAYのサポートメンバーとしても活動していた。
*GLAYのサポートをしていた時代は、TAKUROと共にコーラスに参加している。97年秋頃、頭髪をモヒカンにして、数あるサポートメンバーの中でも際立つ存在になる。
*特にDER ZIBETではライブだけでなく、アルバム『HOMO DEMENS』(1990年)全曲で演奏に参加しており、その際、かなり自由にやらせてもらえたことがその後の活動のきっかけになったとのこと。ちなみアルバム『POP MANIA』(1994年)収録の「ぜんまい仕掛けのピエロ」では演奏だけでなく作曲でも関与している。
*2002年、LOOPUSに参加(~2004年)。また、「二枚舌」や、PATA(X JAPAN)や真矢(LUNA SEA)達と共に相川七瀬のバックバンド、久松史奈のサポートメンバーで活動。
*2006年10月にミュージシャン名「D.I.E.」から「DIE」へ改名。
*2007年5月19日YOKOHAMA 7th Avenueのライブをもって、PATA率いるRa:INの正式メンバーとなる。
2012年10月6日(土)
ディスコグラフィー ・・・シングル
2011年11月 4日(金)
2011年 5月 6日(金)
中学時代にビートルズ来日のTV放送を見てカルチャーショックを受け、その翌日にエレキギターを購入。コピーを始めた後、ローリング・ストーンズにも大きな影響を受け、クリーム、レッド・ツェッペリン等のブリティッシュ・ハードロックを聴くようになる。同時にバンド活動も開始するが、中学3年時にはベーシストが見つからず、村田が自ら担当していたという(なお、20歳くらいまではいろんなバンドでベースを引いていた)。 大学入学後の1977年にバンド「ALMOND ROCCA」を結成し、本格的なバンド活動を行うようになる。「ALMOND ROCCA」は1978年のEAST-WEST地区大会でグランプリを獲得するなど高い評価を受ける。渋谷にあるYAMAHAのスタジオ「エピキュラス」で練習を行い、デモテープを制作。「エピキュラス・フレンズ・コンサートライブ」という自主制作版に後のレパートリー曲となる『電話しても』『GREYHOUND BOOGIE』が収録される。また、デモテープがエピキュラスのエンジニアからフリーのプロデューサーに渡り、ソングライティングとヴォーカルを高く評価したプロデューサーが村田に接触するも、完全な洋楽指向で邦楽は山下達郎とはっぴいえんどしか聞いていなかった村田は「あなたじゃ駄目、僕らをプロデュースできるのは山下達郎ぐらいかな」と大口を叩いて断ってしまう。だが、そのプロデューサーが偶然にも知り合いだったため、山下達郎に実際に会い、デモテープを渡す機会を得る。デビューへの道を模索するが、村田が山下との間にプロデューサーを入れることに納得いかず、かといって直接依頼したかった山下の電話番号も聞いていなかったため連絡が取れないまま、デビューの話は立ち消えになってしまった。だが、デモテープを聴いた山下達郎は村田を高く評価しており、「もし、このシンガーが世に出なかったら「電話しても」を自分で歌おう」と思ったほど惚れ込んだという。
結局デビューの話が立ち消えになってしまった村田は大学卒業を機会に「ALMOND ROCCA」を解散、YANMAHA楽器へ営業マンとして入社する。サラリーマンとして働きながら「ALMOND ROCCA」を再結成し、精力的にライブ活動を行う。ライブを見に来ていたRCAレコードのディレクターに評価され、再びデビューの話が持ち上がる。RCAレコード内にあるAIRレーベルに所属していた山下達郎と再会。既に村田を評価していた山下の後押しもあり、デビューが決定する。 1981年、会社を退職しデビューアルバムのレコーディングに入る、山下によるプロデュースを期待していた村田だったが、音楽性や声質から「山下達郎が村田を手がけたら、似すぎてしまうのでは」というスタッフの危惧から、アレンジは鈴木茂と当時寺尾聰のアレンジでヒットを飛ばしていた井上鑑に委ねられることとなる(鈴木はアルバム「LAGOON」を気に入っていた村田の、井上はスタッフサイドからの要望であった)。レコーディングが進む中、製作途中のテイクを聴いた山下から直接村田に連絡があり、アレンジのやり直しを進言。結局『電話しても』を含む数曲が山下のアレンジでやりなおされることになった。また、製作中にムーン・レーベル設立の話が立ち上がる。第一弾アーティストとして村田と松下誠がラインナップされることとなり、一旦レコーディングを中断してデビューのタイミングを調整。レコーディング開始から1年後の1982年4月、シングル『電話しても』でデビュー、同年6月にファーストアルバム「また明日」がリリースされた。
2012年10月15日(月) 2011年 7月15日(金)
アテンションプリーズ、律とイサト、アーリー・タイムス・ストリングス・バンド、ザ・ラストショー等を経て多くのミュージシャンと親交をもつ。
使用楽器はスティールギター、バンジョーが主であり、以前は泉谷しげる、加川良、長渕剛などのレコーディングやツアーへの参加も行っていた。
現在は自らのバンドであるアーリー・タイムス・ストリングス・バンドや、松田幸一、徳武弘文、島村英二、河合徹三らとのザ・ラストショーを継続すると共に、シールズレコードからソロアルバムの発表や、数十年ぶりに律とイサトを復活させるなど、マイペースで活動している。
ラストショウは2010年に32年振りとなるニューアルバム『家路〜My Sweet Home〜』をリリースしている。
元「ジャックス」のリーダー『早川義男』と、フォークグループ「四人囃子」の『佐久間正英』のユニット、「Ces Chiens(セ・シアン)」のライブです。
様々なアーティストにカバーされている「サルビアの花」の作者です。
最近では女子大生デュオ「もとまろ」や「岩淵リリ」「井上陽水」が有名です。
佐久間正英氏(2014年1月16日午前2時27分永眠、61歳没)については、ウィキペディアにてご覧下さい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・合掌
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E6%AD%A3%E8%8B%B1
2010年4月17日(土) 「快気春眠玉手箱」
浜田省吾氏のツアーメンバー、サックスの「古村敏比古」、中島みゆきのコンサートメンバー「古川望」、浜田省吾氏や、アメリカのカントリーシンガー、リンダロンシュタットのバックで、トロンボーンやユーふぉにズムなどを演奏する「清岡太郎」氏のユニット。楽しい演奏とトークで盛り上がりました。
2012年5月18日(金) 2010年7月 6日(火) 2009年6月23日(火)
湯川トーベン(ゆかわトーベン、1953年9月4日 - )は東京都出身のロックベーシスト。湯川潮音の父。子供ばんどを経て現在は遠藤賢司バンド(エンケンバンド)・フォークロックス・TRIPLE DIAMONDなどに参加。他にもソロ活動やスタジオ・ミュージシャンとして国内アーティストのレコーディングにも参加し、またライブのサポートなど多方面で活躍している。
The RocKでは、4回のライブを開催して下さった「子供バンド」のベーシスト。
「湯川潮音の父ちゃんです。。。と、ミュージシャンである娘さんの宣伝もトークで楽しめました。
2008年9月17日(水)
爆風スランプのベーシスト「江川ほーじん」氏と、日本のジャズ界のトップ・エレキベーシスト「水野正敏」氏の、ベース・デュオ。ベースギターが、メロディとリズムを奏でる様は圧巻。
江川 ほーじん(えがわ ほーじん、1961年6月15日 - )は、大阪府出身のミュージシャン、ベーシスト。本名は江川 芳仁(ほうじん)。
一時期はひふへほーじんとクレジットされていたこともある(江川ほーじんと名乗ると、「江川こうじ」と間違われてしまうことが多かったため、自己紹介の際に「江川・はひふへほのほーじんです」などと名乗る癖があったことに由来する)。
1982年、ファンキー末吉らのアマチュアバンド「爆風銃(バップガン)」に途中加入。 直後にファンキー末吉の誘いにより、「スーパースランプ」に在籍していたサンプラザ中野、パッパラー河合とともに「爆風スランプ」を結成。ベースおよび作曲を担当した。
1989年初頭に、爆風スランプのプロデューサーであった新田一郎と音楽活動方針を巡って対立し、人気の絶頂期にあった爆風スランプを脱退。
織田哲郎らのプロジェクト「TOUGH BANANA」(舛添要一、小西克哉が作詞に参加した全曲英語詞の異色アルバム)に参加した後、1990年に梅原達也、山根基嗣、堀尾哲治とともに「RHINOCEROS」を結成した。
その後、ウィック・ビジュアル・ビューロウのWGPオフィシャルビデオのオープニングとエンディングテーマを手がけたり、「Portfolio」などのバンド活動を経て、現在はスタジオ・ミュージシャンとしての活動や、様々なミュージシャンとのセッションライブ等も行いながら、20数年ぶりに集結した爆風銃のメンバーたちと再始動へ向けて準備を進めている。
水野 正敏(みずの・まさとし、1954年5月7日 - )は、エレクトリックフレットレスベースおよびアコースティックベース(ウッドベース)を演奏する日本人ベーシスト。彼の生み出す楽曲は非常に個性的であり、作曲家としての評価も高い。さらにプロデューサーとしても多くのアルバムを世に送り出している。
ジャズミュージシャンとしてキャリアを重ねたが、現在はジャンルを超えた演奏活動を展開している。水野独自の作曲法「MIZUNO METHOD」により作曲された楽曲は非常にユニークなためジャンル分けすることが難しく、水野ミュージックとも呼ばれている。
1994年に村上秀一、佐山雅弘と共にアルバムPONTA BOXを発表、好セールスを記録しメジャーシーンへ登場する。この年初登場したベースマガジンのインタビューで水野は、自分のベースを所有しておらず、弟子のベースを借用してレコーディングに臨んだと語っている。また、同時にモニターしてくれるメーカーを募集しているとも語り、その直後にESPとモニター契約を結んでいる。
ライヴ・アット・モントルー・ジャズを発表後にPONTA BOXを脱退。脱退の理由については公にされていない。
2011年11月25日(金) 2011年 6月25日(土)
2010年 5月20日(木) 2009年 7月24日(金)
徳田建
徳田 建 1950年生 兵庫県芦屋市出身 仲間と共に音楽活動を始めて以来、書き続けた曲と詩を40歳を過ぎてから京阪神を中心にライブを通じて唄い続けている。 西宮市にて阪神大震災被災の後、様々に移ろいゆく世の中に宿る変わらぬ優しさと温かさをテーマに作品を凝縮。 2000年、50歳を期にCD『徳田建/犬の唄』を自主制作。 誰の心の中にもある温もり、そして唄うことから生まれ出る力が人に伝わるよう願いを込め、また捨てられたペット達の命が救われる事を祈りつつ活動を続けている。 >> オフィシャルサイト http://www.osuwari.com/tokudaken/html/index.html |
まじ ラップスチール奏者・ギター弾き・唄うたい(これだけしかプロフィール書いてない…)
2008年9月23日(火)
日倉士歳朗(ひぐらし としろう、1952年4月25日生まれ)は、日本のミュージシャン。レパートリーはボーカル、ギター、スライドギター、ラップスティール・ギター、マンドリンなど。
2008年10月30日(木) ゲスト 成川 修
徳田 建 1950年生 兵庫県芦屋市出身 ゑつみ シンガーソングライター。 東京音楽大学付属高校、東京音楽大学ピアノ科卒。バックコーラスとして、TV、コンサート、CM、などに出演。その後、オリジナル曲によるピアノ弾き語りライブ活動を開始。 2000年よりナターシャ・グジーの伴奏者としてチェルノブイリ救援コンサートやCDなどに参加。2003年にはチェルノブイリ被災地を訪問する。
これまでに弾き語りアルバム「in H」「えつみうた」 |
2012年 4月29日(日)
2011年10月17日(月) オープニングアクト 「エイトヤマザキ」「尾崎真」「小川哲朗」
2010年10月 4日(月) オープニングアクト 「井原羽八夏」「エイトヤマザキ」
2009年10月 2日(金) オープニングアクト 「カツオ」「エイトヤマザキ」
2007年11月 9日(金) オープニングアクト 「成川 修」
2009年3月29日(日) オープニングアクト「俄」
青山 陽一(あおやま よういち、1963年8月26日 - )は、長野県長野市出身のミュージシャン・シンガーソングライター・ギタリストである。
*音楽専門学校を卒業後、1985年、大田譲(現カーネーション)らとバンドGRANDFATHERSを結成。ナゴムレコードやメトロトロン・レコードより作品を発表する。
*1990年にメトロトロンより初のソロアルバムを発表する。
*1992年のバンド活動停止後はソロ作品を発表するかたわら、バックバンド「THE BLUEMOUNTAINS」(the BM's)を率いてライブ活動を行う。現在のメンバーは中原由貴、千ヶ崎学、伊藤隆博など。
*1998年に徳間ジャパンコミュニケーションズよりメジャーデビュー。
*2010年、Steve Winwoodオフィシャルサイト主催のカヴァー・コンテストで2位を獲得する。
オープニングアクトの「俄」は、
俄は、1972年、SBCラジオ主催のフォークコンテストで優勝した後、1975年に日本フォノグラム(フィリップスレコード)から「雨のマロニエ通り」でメジャーデビュー。宮川良明(須坂市出身:ギター・ボーカル)、中島ひでき(須坂市出身:ギター・ボーカル・フルート)、大枝泰彰(岡山市出身:ギター・ピアノ)の3人によるフォークロックグループで、1枚のLPと2枚の
シングル盤を発表した。デモテープの録音では、山下達郎や伊藤銀次、松任谷正隆らが担当。最終的には大野克夫が編曲した。巧みなアコースティックギターサウンドが真骨頂のバンドだったが、翌年に突然解散。8ヶ月間の短い活動の幕を閉じた。
宮川は専門学校を卒業後“はしだのりひこ”のバックミュージシャンを経て、長野市内で音楽スタジオを経営。娘はミュージシャンの宮川真衣。中島は長野県内でテレビ番組制作を手掛けている。デビュー当時、順天堂大学医学部の学生だった大枝は、現在東京で開業医としての毎日(病院内にスタジオが有ると云う噂も…)。復活ライブで3人が一堂に会すのは実に34年ぶりになる。
The RocKでは、宮川氏、中島氏のデュオで「再結成2/3」として参加していただきましたが、別の日に姉妹店India live the SKYで3人再結成イベントを開催しました。(噂では、東京で開業医をなさっている大枝氏が「そんなにおもしろい事しているのに、なんで呼んでくれないんだ~~っ」と、駆けつけた・・・らしい) で、二人の時は、バックメンバーを入れて「俄組」として活動しているらしい。
中島氏は、青山陽一の従兄に当たります。